* *********************************** * 1998/06/28 (日) * エントリー準備中の意図しない落水及び呼吸ガス供給不能状態に関する * インシデント報告書 * *                  報告年月日:2025 年 05 月 18 日 *                  報告者:大山貢 *********************************** # 1 はじめに このエントリーは作者自身の Web 日記に記載した過去のインシデントを報告書の体裁でまとめたものです。ケーススタディのひとつとしてお役立てください。 # 2 概要 ダイブマスターコース実施中のボートダイビングにおいて、ダイブマスター候補生であった当事者がエントリー準備中に意図せず海面へ落水した。 当事者は落水時点において、 * シリンダーバルブ閉鎖状態 * マスク未装着 * フィン装着未完了 の状態であった。 落水後、当事者は一時的に認知狭窄状態に陥ったものの、自力で浮力を確保し、水面においてシリンダーバルブを開放することで呼吸ガス供給状態を回復した。 本事案による人的被害および器材損傷は発生しなかった。 しかしながら本件は、複数のヒューマンエラーが連鎖し、安全確認プロトコルが機能不全に陥った事例であり、重大事故へ発展する可能性を有していたものとして整理される。 # 3 事実情報 ## 3.1 ダイビングの概要 日付:1998/06/28 (日) 場所:和歌山県みなべ町 Wアーチ 実施形態:ボートダイビング 実施目的:ダイブマスターコースにおけるツアーガイドシミュレーション実習 当事者資格: * アシスタントインストラクター資格保有 * ダイブマスターコース受講中 * 2 年ほどの業務経験有 環境条件: * 海況に特段の問題なし * 器材に異常なし ## 3.2 事案発生までの経過 当事者はエントリー準備中、自身のシリンダーバルブを開放していなかった。 通常、当事者は自身でシリンダーバルブ状態を確認する習慣を有していたが、本件では当該確認を実施しなかった。 また当事者は、安全な場所へ移動しての再確認を行うことなく、隣席のダイブマスター候補生に対してバルブ確認を依頼した。 当該時点において当事者は、 * マスク未装着 * フィン装着未完了 の状態であり、エントリー準備の完了前であった。 その後、確認作業の過程で当事者は意図せず海面へ落水した。 ## 3.3 事案発生後の経過 落水の過程で、当事者は呼吸ガスの供給が得られない状態であることを認識した。 当事者は浮力喪失の危険性を認識し、 * ブーツによるキック * BCD へのオーラル給気 を実施し、浮力の確保を試みた。 その後、水面においてBCDを脱装し、シリンダーバルブを開放したうえで再装着し、通常状態へ復帰した。 当事者はその後のダイビングを継続した。 ## 3.4 人的被害および器材状況 人的被害:なし 器材損傷:なし # 4 分析 ## 4.1 直接的事象の発生構造 本件の直接的事象は、エントリー準備中に発生した意図しない落水である。 当該落水時、当事者は呼吸ガス供給不能状態にあったため、事態の危険性が増大した。 ## 4.2 当事者の認知状態および背景要因(疲労および経験バイアス) 当事者の供述によれば、本業における業務負荷が継続しており、当時は疲労が蓄積していた可能性がある。 一般に疲労は、 * 注意力の低下 * 確認行動の省略 * 判断の短絡化 * 状況認識能力の低下 を誘発することが知られている。 本件においても、通常実施されていたシリンダーバルブ確認手順の省略に影響した可能性がある。 また当事者はボートダイビングにおいて、日常的に他者のシリンダーバルブ確認を行う立場にあり、「エントリー前には他者による確認が実施される」という運用経験を反復的に有していた。 このため、当該経験に基づく期待が無意識的に形成され、自身による最終確認よりも他者確認への依存を誘発した可能性がある(経験バイアス)。 これらの要因が重なった結果、セルフチェックの省略および確認責任の曖昧化が生じたものと考えられる。 ## 4.3 安全確認プロトコルの機能不全 シリンダーバルブ開放忘れはダイビング活動において想定されるヒューマンエラーであり、本来は複数の安全確認手順によって捕捉・是正されるべき事象である。 本件では、 * 当事者によるセルフチェック未実施 * 正規手順の省略 * 他者確認への依存 * 他者確認時の見落とし が同時に発生し、複数の防御層が連鎖的に機能しなかった。 この結果、単一のヒューマンエラーが修正されないままエントリー準備段階に残存したものと考えられる。 ## 4.4 落水の発生とその影響 当事者はエントリー準備が完了していない状態で海面へ落水した。 落水時には、 * 呼吸ガス供給不能状態 * マスク未装着 * フィン未装着 という複数の不利条件が重なっていた。 これにより、通常の計画的エントリーとは異なる突発的状況下での水面対応を余儀なくされた。 ## 4.5 落水後の認知状態と対応 当事者は落水過程で、浮力確保を最優先課題として認識した。 本人の証言によれば、この時点では浮力確保以外の選択肢に関する検討が十分に行えない状態であった。 このことから、限定的な認知狭窄状態にあったものと推定される。 一方で、 * 状況認識能力 * 行動能力 * 問題解決能力 は維持されており、自力による回復が可能であった。 ## 4.6 潜在的危険性 本件では当事者の経験により事態の収束が可能であったが、以下の事象へ発展する可能性を有していた。 * 浮力確保不能 * パニック状態への移行 * 溺水 * 救助活動の発生 特に経験の浅いダイバーにおいては、重大事故へ進展する可能性が否定できない。 ## 4.7 SHELLモデルによる分析 ### 4.7.1 Liveware(当事者:人間要因) 当事者には以下の人的要因が認められた可能性がある。 * 本業による疲労の蓄積に伴う注意力及び認知能力の低下 * 確認行動の省略傾向 * 短期的な課題(実習遂行)への注意集中 * 状況変化に対する認知狭窄 これらはセルフチェックの未実施及び判断の簡略化に影響した可能性がある。 ### 4.7.2 Liveware–Liveware(他者との相互作用) 当事者は隣席のダイブマスター候補生に対し、シリンダーバルブの確認を依頼していた。 当該相互作用において、 * 当事者の責任範囲と他者の確認範囲が明確に分離されていなかった可能性 * 確認作業が代替可能な行為として認識された可能性 * 他者による確認の結果が最終確認として扱われた可能性 が考えられる。 さらに、確認作業の過程で意図しない落水が発生しており、相互作用の成立そのものが不安定であった。 ### 4.7.3 Software(手順・ルール) 本件における標準的安全手順は以下で構成されていた。 * エントリー前セルフチェック * シリンダーバルブ開放確認 * バディまたはクロスチェックによる二重確認 しかし実際には、 * セルフチェックの未実施 * 他者確認への依存 * 確認順序の逸脱 が発生し、本来の冗長性を有する安全手順が適切に機能しなかった。 その結果、単一ヒューマンエラー(バルブ閉鎖)が検出されない状態でエントリー準備が進行した。 ### 4.7.4 Hardware(器材) 使用器材に異常は認められなかった。 したがって本件はハードウェア起因の事象ではなく、人的要因および手順要因による事案であると考えられる。 ### 4.7.5 Environment(環境) 本件はボートダイビングにおけるエントリー準備中に発生した。 当該環境には以下の特徴があった。 * 船上という限られた空間 * エントリー準備作業と確認作業の同時進行 * 複数ダイバーが同時に準備を行う状況 * 注意資源が分散しやすい構造 これらの環境要因は、確認作業の中断及び注意分散を助長した可能性がある。 ### 4.7.6 総合評価 本件は単一のヒューマンエラーによるものではなく、 * 人的要因(疲労・認知負荷) * 相互作用要因(他者確認への依存) * 手順要因(チェックプロセスの逸脱) * 環境要因(ボート上の作業構造) が同時に重なったことにより、安全確認プロトコルの冗長性が失われた結果発生したものと考えられる。 # 5. 原因 本事案は、エントリー準備中に当事者が意図せず落水したことにより発生したものと考えられる。 落水時、当事者はシリンダーバルブ閉鎖状態であり、呼吸ガス供給不能状態にあったため、事態の危険性が増大した。 その背景には、 * 当事者によるセルフチェック未実施 * 正規確認手順の省略 * 他者確認への依存 * 他者確認時の見落とし に加え、 * 本業による疲労の蓄積に伴う注意力・認知能力の低下 * ボートダイビング運用経験に基づく経験バイアス が複合的に作用した可能性がある。 これらの要因により、本来ヒューマンエラーを捕捉・修正するために設けられていた安全確認プロトコルが十分に機能しなかったものと考えられる。 # 6. 安全上の所見 ダイビング活動においてヒューマンエラーの発生を完全に防止することは困難である。 そのため安全は、個人の注意力や経験に依存するものではなく、標準化された手順および複数の独立した確認層によって維持される必要がある。 本件は、経験豊富なダイバーであっても、疲労や経験バイアス等の人的要因が重なった場合、安全確認プロトコル全体が同時に機能不全に陥り得ることを示した事例である。 また本件は、「単一のヒューマンエラー」ではなく「ヒューマンエラーを前提として設計された安全システムの防御層が連鎖的に破綻した事例」として整理されるべきである。 # 7. 資料 => https://mitsugu.github.io/divinglogbook/1998/1998062802.html 当日のダイビングログ (HTML) => https://orzbruford.jp/202505/18.html#2025051801 Dive #13: 作者自身のプチ・パニック初体験 (HTML) => https://orzbruford.jp/202606/10.html#2026061001 当記事 (HTML) => index.gmi 戻る